第29回 栄養学の歴史 ~その2 ビタミン編~

学問所通信 特集コーナー
第29回 栄養学の歴史 ~その2 ビタミン編~
第29回 栄養学の歴史 ~その2 ビタミン編~

私たちはいまでこそ、タンパク質や脂質が重要な栄養素であることを知っています。
糖質、ビタミン、ミネラルも体内で重要な役割を果たしていることも知っています。

糖質はまったく取らなくても問題はありませんが、

ビタミンは、体の中でのさまざなま物質の代謝を促進したり、不足すると深刻な病気をもたらします。
ですが、ビタミンの必要性がわかり、それらが化学同定されるまでには、長い年月と多くの犠牲が払われました。

そこで今回はビタミンの歴史をまとめてみました。

ビタミンについては

第14回 食肉の栄養 -ビタミン編-

もご参考ください。


壊血病

「壊血病」という病気が歴史を学んでくると登場します。

船乗りが多くかかる病気です。

古代ローマ・ギリシャ時代から恐れられてきた病気です。
大航海時代の船乗りたちも壊血病で命を落としてきました。
この未知の病気は伝染病だとも信じられていました。

この病気に本格的に取り組んだのはジェームス・リンドでした。

1746年にリンドは軍艦ソールズベリ号の船医となり、この難病の解決に乗り出します。世界一周の航海から帰還した英国海軍軍艦の船員2000人のうち、約1400人が壊血病で死亡していたためです。

リンドは壊血病患者に毎日オレンジとレモンを与える実験をしました。すると患者はすぐに快復しました。
しかし、この実験は当時の英国海軍省からは無視されてしまいます。

そしてそのおおよそ50年後、イギリスはフランスのナポレオンとの戦争に巻き込まれます。このときになってようやくイギリス海軍省は、水兵の食事に柑橘類を用意します。

おかげで、あの有名なネルソン提督の率いる英国海軍では壊血病はほとんど発生しませんでした。
対するナポレオンのフランス海軍は壊血病に悩まされます。

戦争の結果は明らかでした。
英国海軍の勝利です。

このため「ナポレオンを破ったのはネルソンとリンドである」とまで言われました。

にもかかわらず、柑橘類が壊血病に有効であるということはその後も疑問視されつづけました。

なぜなら

・英国海軍の北極圏探索では、多量の果物ジュースがあったにもかかわらず、
 多くの船員が壊血病にかかる事件が起きた。

・北極圏にすむイヌイットは果物を食べず、アザラシなどの肉と脂肪ばかりたべるのに、
 壊血病にかからなかった。

など、柑橘類が壊血病を必ずしも治癒しないケースが起きていました。


私たちは今でこそ、壊血病は「ビタミンC不足」によって起きると知っています。
ビタミンCは熱や酸化によって破壊されてしまいます。
*亜硝酸塩はビタミンCの酸化を防ぐため、現在では多くの加工食品に添加されています。
また海獣の生肉にはビタミンCが含まれています。

これらが解決されるには20世紀になるまで待たなくてはなりませんでした。




体液学説

壊血病は古代ギリシャ人やローマ人にも「海の紫斑病」として知られていました。
十字軍や大航海時代など、私たちが知っている歴史の裏側でも壊血病が蔓延していました。
歴史を通して、水兵や探検家たちは戦闘よりも壊血病で多くが命を落としたといわれています。

リンドが登場する以前にも、
柑橘類が壊血病に有効であることは何度も報告されていました。
新鮮な果物で酸味のあるレモンやオレンジが効果があることが何度も警告されてきました。

しかしながら、そのたびに、この警告は無視され続けてきました。

これはなぜなのでしょう。

大きな理由のひとつに「体液学説」というものが挙げられます。

18世紀以前の医師たちは「ガレノスの体液学説」を堅く信仰していたのです。
ようするに「権威」に頭があがらなかったのです。

ここでは詳しくのべませんが、
「血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁」の四体液説と、「熱・冷・湿・乾」の4つの基本性質との関係から病気を治療します。

壊血病は「黒胆汁の過剰」または「体液の腐敗」によて引き起こされるものと考えられてきました。
そして黒胆汁の病気は「冷」の病とされています。

体液学派では、冷の病を治療するには、その反対側の「熱」を利用することになります。
残念ながらレモンジュースなどの酸性果物ジュースは「冷」の治療とみなされていました。

そのため、当時の医師たちは、「冷」の病気を「冷」で治療することに疑問をもったのです。
その結果、柑橘類が壊血病に聞くという報告は握りつぶされ続けてきたのです。

食べ物で難病が簡単になおるとお医者さんは稼げなくなってしまいますから。
なんだか、現代の糖尿病を糖質過剰な食事で直そうとする医師たちを見てるみたいですね。

ペラグラ

壊血病と同じく、ビタミンなどの栄養素が不足して起きる病気に、ペラグラ・脚気・くる病があります。

みなさんも聞いたことがあるかもしれません。
これらの病気も「伝染病」だと考えられていました。

ペラグラは20世紀の初頭に米国南部の貧しい人々の間に蔓延します。

ペラグラは現在ではニコチン酸欠乏症として知られています。

ニコチン酸はヒトの体内でナイアシンから合成されるので、ナイアシン欠乏症とも呼ばれます。
ナイアシンはもちろんビタミンですよね。

この問題に取り組んだのが米国の医師 ジョゼフ・ゴールドバーガーでした。

ゴールドバーガーは、ミルクや卵、肉を食事としてあたえると、ペラグラが治癒することを見つけました。

しかしながら、これは当時の多くの医師たちから非難を受けます。
彼らはペラグラは伝染病だ!薬じゃないと治らない!と根拠のない批判します。食事で難病が簡単に治ったら、医師たちは困るからです。

そこでゴールドバーガーはものすごい反撃をします。
なんと自分の体で人体実験をしたのです。
自分の体だけではありません。妻とボランティアで集まった有志による実験です。

かれらはペラグラ患者の分泌物や排泄物を体内に取り込んだり、皮膚にぬったりしました。
3か月間の実験後、
誰一人もペラグラを発症しませんでした。

これで多くの批判者たちも沈黙せざるをえなくなりました。
ゴールドバーグはペラグラに有効な物質を「P-P因子」と名付けました。
このP-P因子の化学的同定することなく、ガンのために惜しくも死亡してしまいました。

脚気

日本人になじみの深いのが脚気ではないでしょうか。

いまでは脚気はチアミン(ビタミンB1)欠乏症として知られています。

末梢神経や心臓の血流に障害を起こす病気です。深刻化すれば、呼吸不全、心不全で命を
落とすこともある恐ろしい病気です。

米を主食とする民族に特有の疾患だといわれています。

近代にはいると、精製技術が発展し、精米により米ぬかを排除し、
食べやすい白米をたべるようになりました。

米ぬかには多くのビタミンが含まれています。これをそぎ落としてしまったのです。
明治時代の日本の海軍ではこの「脚気」が蔓延していました。

海軍は貧しい農村の若者を「おいしい白米」で誘ったからです。この脚気に取り組んだのが、高木兼寛です。

高木は海軍の若者が食べる白米に、大麦を混ぜます。
またタンパク質の多い献立に変更します。

これにより、海軍における脚気の問題は一層されてしまいました。しかしながら、陸軍では、この海軍での成果は無視されます。

ここで驚くべき人物が登場します。

森鴎外です。

そうあの「文豪」として知られる森鴎外です。
森鴎外(本名 森林太郎)は陸軍の軍医でした。

彼は「脚気は伝染病だ!」と主張します。

そして、麦飯を採用とする将官をどんどん左遷してしまいます。そして白米主義のまま、時代は日清戦争に突入します。

日清戦争は日本の勝利に終わります。
海軍には脚気は皆無でした。
陸軍では、4000人以上の脚気による死亡者がでました。
戦闘で死んだ兵士は1200人でした。

その後日露戦争では、
陸軍の脚気患者は21万人にも上ってしまいます。

日露戦争は海軍の歴史的大勝利で幕を閉じます。

残念ながら、海軍から脚気を一層した高木の業績は森鴎外が死去するまで封印されてしまいます。



壊血病が生んだスラング

19世紀になると、アメリカの船乗りたちは、イギリスの船乗りたちが、ライムジュースを定期的に飲んでることを知ります。

もちろん壊血病を予防するためです。
アメリカの船乗りたちはそんなことは知りません。

イギリスの船員たちはライムジュースばっかりのでる「ライミーだ!」と呼ぶようになりました。


まとめ

リンドやゴールドバーグ、そして高木をはじめとする多くの学者の努力により、
伝染病と考えられていた多くの難病が、食事に含まれる未知の栄養素よって解決することが示されてきました。

栄養学の大勝利ですね。

この大勝利は、さらにその未知の栄養素がなんであるかを探し出すことで補完されていきます。
次回の学問所通信では、未知の栄養素であったビタミンの発見の歴史についてまとめたいと思います。

参考図書
「栄養学の歴史」 Walter Gratzer著 水上茂樹訳(2008年)
「栄養学を拓いた巨人たち」 杉晴夫著(2013年)